浄化槽の歴史
那覇市田原公園内に移設されたフェーヌメシチャグイ家(屋号)のフール
1392年代ごろ
琉球国王が王位につくにあたって中国から冊封使が来島して任命式が行われていたため、1392年 中国から豚が持ち込まれ、豚肉好きの中国人の接待に豚を使用していたこともあり、首里王府は仏教を受け入れたものの、肉食文化を排除しませんでした。
このため、王府は、政策的に養豚を奨励したため、全島に普及していきました。当時の貧弱な食料事情のなか困窮していたこともあり、貴重なタンパク質補給源にもなり、行事や祭祀で欠かせないものとなっていたために、豚便所(ウヮーフール)の風習も抵抗なく導入されました。
ヒトのウンチは未消化の部分が50%前後もあり、廃棄物として処理するのではなく、養豚と廃棄物処理をセットしたのが、豚便所となり、その豚が排泄した糞尿は発酵させることによって最良の有機肥料なることから、豚便所のシステムは、ゼロエミッションの発想であるといえるが、反面では、ウィルスや寄生虫など人畜共通感染症が数多く存在しており、もっとも縁が深いのはサナダムシとよばれる条虫で、このムシの宿主が豚で、人の小腸で成長して豚便所を利用することで、限りなく人と豚の間を循環する、衛生的に恐ろしい風習ともいえるものでした。
1960年代ごろ
戦後、米軍の強制収容所に設置された、ドラム缶式便所やくみ取り式便所は、ゴキブリやウジがわいて、はえが発生し、くさいことで不快な思いをすることから、これらの汚物や排泄物を処理するために、下水処理場の設置と下水道を整備する計画もありましたが、莫大な費用と期間を要するために、戸別の浄化槽を設置してトイレの水洗化が増えてきました。これには、在日米軍の水洗化普及が大きく影響しており、沖縄は全国的にも水洗便所の普及率が高いといわれております。
復帰前は米軍軍属が民間の飲食店に出入りするのを制限していたことがありましたが、これは、伝染病、性病など感染予防の目的があり、そのために水洗便所は最初にクリアすべき条件でありました。
昭和30年代、農村地域を対象に行った健康診断によると、住民の42%が一種あるいはそれ以上の寄生虫に感染していたことから、人の汚泥を堆肥として利用させないことを目的とした意図があったものと察しますが、琉球列島米国民政府(1950~1957 UNITED STATES CIVIL ADMINI-STRATION OF THE RYUKYU ISLAND (USCAR))の指導のもと、「寄生虫ゼロ作戦」を支援することとなり、当時の米軍政府公衆衛生福祉部のオーマーE・ローラーという下水専門の技官が自ら考案した「ローラー式簡易水洗便所」がつくられました。便所の床、便つぼや防臭弁、三つ区切りの腐敗タンク、ろ過装置、排気孔、パイプその他の材料費を含めて140ドル(便所の建物の費用は除く)で、一人一日あたり約1.5ガロン(約6リットル)の水を流し、固形物のみを沈殿させたのちに汚物をひしゃくでくみ取り、うわ水のみを排水するといった、農村地域での水洗便所を普及させました。
1965年代ごろから現在
しかし、汚泥の運搬業者から生の糞尿を川に不法投棄したり、浄化槽をそなえることができずに溝にたれ流すなど生活雑排水や畜舎排水などが、河川への流入があった時期もあり、那覇市の安里川、国場川、安謝川などの一部から、コレラや赤痢が検出されたこともあるといわれております。
外人住宅に浄化槽を取り付けると約500ドルもかかるために(当時家一軒の建築費用約1000ドル)、浄化槽なしの水洗便所で貸し付けている非常識な貸住宅業者がいたために、現在残っている古い住宅でも浄化槽の設備をしないで汚水をそのまま溝に放出さている地域もあることが報告されています。
外人向け貸し住宅は本土には見られない独特のものでありますが、水洗化を普及させた背景として米軍人が果たした役割が大きいといえます。昭和30年代の水洗便所の形式は「ほおり込み式」や「打ち込み式」と呼ばれる、くみ取り型うわ水垂れ流しの装置は、維持管理が難しい、建築費が高い、敷地面積を大きく取ることから、昭和40年代後半、日本で開発された、メーカー製のコンパクト型単独浄化槽が急速に普及しました。
現在でも沖縄県内で約8万基の単独浄化槽が設置されており、浄化槽設置基数の全体の約8割を占めております。
平成12年に浄化槽法が改正され単独浄化槽の製造、新規設置は禁止されており、やがて単独浄化槽の使用されている方は合併処理浄化槽への転換等に努めるものとされました。
現在の合併処理浄化槽は日本が世界的にも誇るものであり、保守管理をすれば、保健衛生や生活環境にも大きく影響します。先人が作りあげてきた文化を、健全な社会づくりに役立てるよう一人一人が意識して行動することが大切です。
(参考文献:沖縄トイレ世替わり フール(豚便所)から水洗まで 著者:平川宗隆)
※下記の資料はオーマー・E・ローラー氏の記事の一部「今日の琉球第10巻9号」(沖縄県公文書館)より抜粋したもの